今年のTCAの出演者が発表になっている。ふっ、去年の苦い思い出がよみがえるわ。みらんちゃん出ないんだ。だから茨の道だと。オギー演出なら観たいかな。ダンスリサイタルも。まぁ、チケットと休みの取れ具合によりますか。

ご贔屓がいないから、単に出し物として楽しめるかもしれない。もちろん、これは負け惜しみ。ご贔屓の扱いで一喜一憂するのがヅカファンの醍醐味のひとつですから。どんな扱いでも、いてくれることは幸せだ。

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中日は行きません。行かないけど気にはなるので、緑野師匠を質問責めに。とほほ。やっぱりやりすぎでしたか。でもそれがケロちゃんのよいところではあると思っているけれど。だって誰がやっても同じところに収まるなら、面白くないじゃないですか。他に誰もいないから、好きだったんだ、私は。汐美真帆が。

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さて、「エリザ」。

1月28日の日記にも書いたけど、「エリザベート」が5回も再演を重ねてなお、客が入り続ける理由を、考えたことがある。

「少女時代、おてんばでやりたいことやりたい放題、あるがままの自分でOK」
「誰もが憧れる王子さまから一目ぼれされ、プロポーズされる。花嫁修業にいそしんでいた姉を差し置いて」
「結婚式は盛大で豪華。まさに玉の輿」
「結婚後、絶対権力者の姑がいようとも、自分を失わないで生きると自分に誓える」
「人生を常に見守ってくれる存在がある。しかも魅惑に満ちて美しいものから誘惑されるという形の見守り」
「子供は跡継ぎ含めて男女とりまぜ3人」
「出産後も体型や美貌を維持。世界で一番美しいという評判」
「地位も名誉もある夫から、人生ではもちろん仕事の上でも君が必要といわれる」
「仕事で大成功。原因は実家の財力や本人の懸命な努力というよりも、もって生まれた“美貌”による」
「社会的評価は夫より高いほど。もちろん姑には完全勝利」
「浮気した夫を置いて世界各地を自由に旅行。それだけの自由、行動力、財力あり」
「自分は愛してなくても、夫からは一生愛されている実感がある」
「死してなお、自分を永久に愛してくれる存在が待っている」

現代の女の人生で、どの局面でも“こうありたい”と思えることを、実行しちゃってるのが「エリザベート」シシィの人生なんじゃないか。例えば私なら、出産後(出産前もだが)ウエスト50cmなんて夢だーい。

息子を失うだとかそりゃ痛みもいろいろあるから、シシィの人生が女の理想の人生には見えないようになっているけど、そういうものをとっぱらってしまったら「理想の人生つなぎあわせ」だ。
だから、素直にシシィに共感してしまう。そうよ、私の人生はこんなんじゃないわ、きっと明日にはシシィみたいな人生が待っているわ。

宝塚なんだからそれでいい。見終わった後は「明日も頑張ろう」と思える。これが一番大事だもの。

シシィに共感するから、トートに「息子を奪われ」る場面では、大切なものを持っていかれたという哀しみの感情になる。「黄泉に連れていってもらう」から、やっと安寧の場所を得た安らぎとカタルシスが味わえる。
花ちゃんマジックとも相乗効果。どこにでもいそうな女性が、内面で深く悩み、考え、絶望し、また生きていく。女の人生、単純じゃない。理想の姿を得ていていても、様々なことに悩み苦しむのは私だけじゃないと思える。

ところが、今回の月エリザ。あさこちゃん、悩むより先に感情とあるがままの勢いで人生駆け抜けちゃったように見えたのだ、私には。あさこスカーレットを観たときも「あんた、何にも考えてないでしょ!?」と思った。それと同じ印象があさこシシィにあった。

だからkineさんに「恋を知らない少女が本当の愛に気づく話でしょ?」と言われ、「そうか、そうだったんだ」と目からうろこだった。あさこシシィは素直な女性だったんだ。ホントはそんなに悩む必要、なかったんだ。

月エリザでは、私はシシィには共感できなかった。トートに共感してしまった。だから「愛しい女の息子を誘惑し」手に入れられてよかったね、愛しい女がやっと振り向いてくれて「黄泉に連れていけて幸せだ」みたいに、主語が変わってしまったのだ。

観る前には想像もしなかった。

さえトートは「死」ではあったけど、ずっと昔、人間だったことがあるようなや優しげな「死」だった。
永く独りで漂っていた闇の中で出会ってしまった運命の(?)女性。自分は歳を取らない。じっくりじっくり彼女が自分を振り向いてくれるのを待つ。時々闇から姿を現して。
働きかけて今度こそシシィが振り向いてくれたかと思っても、また思うとおりにはならない。その時に見せる傷ついた顔が生生しくて秀逸で。ひたすら一人の人を思うトートに、気がついたら共感してしまっていた。

シシィのことは外から見ていた。こんな人もいるだろうな、なるほどな、と。あさこシシィは生きていく底力があるように思えた。結局、誰かに助けてもらう必要はないんじゃないかなぁ、というニュアンスがあちこちに感じられたのだ。それは扇を広げるしぐさひとつだったり、セリフの言い回しひとつだったりする、ささいなことなんだけど。

今のもっと若い世代の女の人たちは、あさこシシィのように、底力の強さを持っているかもしれない。私たちの世代が悩み苦しみながらうじうじしていたところを、ひらっと飛び越えていくような。

自分を投影することはできないけど、たくましくていいか、私にとってはそんなシシィだった。

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