先日の「緑野師匠と仲間たち(別名ホテルドリーズ)」の集いのとき、ドリーさんが持っておられた花組公演パンフを見せていただいた。もう置く場所にも困るし、公演パンフは買わないことにしているので。
「マラケシュ」のプログラムを読んでいると以下のような記述があった。
“イヴェットは部屋にまで忍び込んできたギュンターに脅され、絶望して手首を切り、自殺を図った”
えーっ!?いつ部屋に忍び込んでたの?いつ脅されてたの?
“リュドヴィークはギュンターに、金の薔薇は自分が持っているからイヴェットにはこれ以上手を出さないよう、交渉した”
えーっ!?いつリュドヴィークとギュンターって対決してた?
プログラムの記述はもう曖昧だけど、大体こんなことが書いてあった。思わずその場で読み上げ、皆さんに「私が見逃してたんでしょうか?」と尋ねてみたが、皆さん「そんなの知らない」と一斉に首を横に振っておられた。よかった、私が寝てたんじゃないんだ。
その説明を読んでから、舞台を思い起こせば、確かにまぁ、あの場面はそういう意味合いだったのだな、と理解はできた。でもあの舞台からあの意味をそう取るのは難しいんじゃないか?
パリの回想シーンも、いろんな出来事やいろんな人の想いが詰め込まれすぎていて、一度で理解するのは無理。特にオギーのコロスっつーか分身っつーか象徴っつーかそういう人たちが舞台上に入り乱れる使い方に慣れていないと、どれが実際の人物で、どれが直接は関係ない人かもわからないだろうなぁ。
初舞台生を観に来られたご親族、ご友人たちは狐につままれたように思ってるだろう。一般客が多い初舞台生お披露目の芝居は、わっかりやすーいのにしておく方がいいと思う。
でもね。
オギーの作品は、理解しようとするからわからなくなるんだ。そう思う。ショーならば皆、理解しようと思って観ない。美しい世界に浸ろうとまずそういう姿勢で臨むから、知らないうちにあの世界に飲み込まれていく。「ドルチェ・ヴィータ」の美しい悪夢、水の中の世界にいつのまにか沈んでいるように。芝居も同じ姿勢で臨むといい。
私にとっての大劇場のお芝居の最高の作品は「螺旋のオルフェ」。わからない、失敗作だ、の烙印がしっかり押されたあの作品。
私は舞台は観たことがない。まだ宝塚ファンじゃなかったから。ビデオで観たとき、確かに一回目は「???」だったかもしれない。でも2回目当たりから「素晴らしい!」だった。
なぜ、この世界をみんなわからないというの?何がわからないの?これはこういう世界なのよ。降霊術だろうが幻だろうがナチスだろうがレジスタンスだろうが全てそのまま受け入れればいい。
人は言葉で嘘をつく。その嘘ごと受け入れよう。嘘のセリフを書ける演出家が他にどれだけいるというのだ?
あなたが、私が、言葉で嘘をつくように。目で見ている世界がどれだけの真実と痛みを隠しているかわからないままであるように。
観たままを受け入れて、感情をゆだねればいいんだ。
「マラケシュ」も、そう。プログラムの解説なんてどうだっていい。イヴェットの絶望、リュドヴィークの厭世、レオンの切ない野心。みんなそのまま受け取ればいい。受け取れるようにオギーはそのメッセージを役者に託す。当て描きという残酷な手法で。私たちが何も考えずにその役者のオーラを浴びればいいように。
さらにオギーはひとりひとりどう受け取るかの自由まで残してくれている。蛇は死なのか生なのか。リュドヴィークが愛したのは、オリガなのかイヴェットなのか、それとも自分なのか。
だから、こう受け取るべき、を論じるのは滑稽だ。あなたにとっての「こうあるべき」があるように他の人にも「こうあるべき」がある。それはその人の人生を映しているだけなんだから。
恐ろしい演出家だ。
許されるなら、私はオギーはこのまま行って欲しい。破綻のなくなった齋藤先生の作品がつまらなくなったようにはならないで。観る人がその世界に投げ込まれたような陶酔感を味わえる、そのままでいて。興行的に厳しいだろう、批判もあるだろう、いつか自分のやりたいようにやるわけにはいかなくなるだろうけど。
それまではオギーの世界に身を沈めさせて欲しい。
☆
ま、いろいろありますが、私はオギーには恩があるので、足向けて眠れません。意識的に擁護しています。
だってー、ケロちゃんのために涙を流し、ショーを作り変え、DSも作ってくれたんだもん!一生感謝してもしきれません!特にDS、ケロちゃんに任せていたらどうなっていたか。ああ、恐ろしい(12月14日の日記参照)。
「マラケシュ」のプログラムを読んでいると以下のような記述があった。
“イヴェットは部屋にまで忍び込んできたギュンターに脅され、絶望して手首を切り、自殺を図った”
えーっ!?いつ部屋に忍び込んでたの?いつ脅されてたの?
“リュドヴィークはギュンターに、金の薔薇は自分が持っているからイヴェットにはこれ以上手を出さないよう、交渉した”
えーっ!?いつリュドヴィークとギュンターって対決してた?
プログラムの記述はもう曖昧だけど、大体こんなことが書いてあった。思わずその場で読み上げ、皆さんに「私が見逃してたんでしょうか?」と尋ねてみたが、皆さん「そんなの知らない」と一斉に首を横に振っておられた。よかった、私が寝てたんじゃないんだ。
その説明を読んでから、舞台を思い起こせば、確かにまぁ、あの場面はそういう意味合いだったのだな、と理解はできた。でもあの舞台からあの意味をそう取るのは難しいんじゃないか?
パリの回想シーンも、いろんな出来事やいろんな人の想いが詰め込まれすぎていて、一度で理解するのは無理。特にオギーのコロスっつーか分身っつーか象徴っつーかそういう人たちが舞台上に入り乱れる使い方に慣れていないと、どれが実際の人物で、どれが直接は関係ない人かもわからないだろうなぁ。
初舞台生を観に来られたご親族、ご友人たちは狐につままれたように思ってるだろう。一般客が多い初舞台生お披露目の芝居は、わっかりやすーいのにしておく方がいいと思う。
でもね。
オギーの作品は、理解しようとするからわからなくなるんだ。そう思う。ショーならば皆、理解しようと思って観ない。美しい世界に浸ろうとまずそういう姿勢で臨むから、知らないうちにあの世界に飲み込まれていく。「ドルチェ・ヴィータ」の美しい悪夢、水の中の世界にいつのまにか沈んでいるように。芝居も同じ姿勢で臨むといい。
私にとっての大劇場のお芝居の最高の作品は「螺旋のオルフェ」。わからない、失敗作だ、の烙印がしっかり押されたあの作品。
私は舞台は観たことがない。まだ宝塚ファンじゃなかったから。ビデオで観たとき、確かに一回目は「???」だったかもしれない。でも2回目当たりから「素晴らしい!」だった。
なぜ、この世界をみんなわからないというの?何がわからないの?これはこういう世界なのよ。降霊術だろうが幻だろうがナチスだろうがレジスタンスだろうが全てそのまま受け入れればいい。
人は言葉で嘘をつく。その嘘ごと受け入れよう。嘘のセリフを書ける演出家が他にどれだけいるというのだ?
あなたが、私が、言葉で嘘をつくように。目で見ている世界がどれだけの真実と痛みを隠しているかわからないままであるように。
観たままを受け入れて、感情をゆだねればいいんだ。
「マラケシュ」も、そう。プログラムの解説なんてどうだっていい。イヴェットの絶望、リュドヴィークの厭世、レオンの切ない野心。みんなそのまま受け取ればいい。受け取れるようにオギーはそのメッセージを役者に託す。当て描きという残酷な手法で。私たちが何も考えずにその役者のオーラを浴びればいいように。
さらにオギーはひとりひとりどう受け取るかの自由まで残してくれている。蛇は死なのか生なのか。リュドヴィークが愛したのは、オリガなのかイヴェットなのか、それとも自分なのか。
だから、こう受け取るべき、を論じるのは滑稽だ。あなたにとっての「こうあるべき」があるように他の人にも「こうあるべき」がある。それはその人の人生を映しているだけなんだから。
恐ろしい演出家だ。
許されるなら、私はオギーはこのまま行って欲しい。破綻のなくなった齋藤先生の作品がつまらなくなったようにはならないで。観る人がその世界に投げ込まれたような陶酔感を味わえる、そのままでいて。興行的に厳しいだろう、批判もあるだろう、いつか自分のやりたいようにやるわけにはいかなくなるだろうけど。
それまではオギーの世界に身を沈めさせて欲しい。
☆
ま、いろいろありますが、私はオギーには恩があるので、足向けて眠れません。意識的に擁護しています。
だってー、ケロちゃんのために涙を流し、ショーを作り変え、DSも作ってくれたんだもん!一生感謝してもしきれません!特にDS、ケロちゃんに任せていたらどうなっていたか。ああ、恐ろしい(12月14日の日記参照)。
コメント