一種の保育記録

2005年5月6日 育児
GW。保育園は当然休み。

また子供と二人きりで丸3日なんて耐えられなーい!と実家へ避難。毎度のことながら、引越しのような大荷物。マンションの部屋から車に積み込むだけで大変。車に積みっぱなしのオムツや机取り付け用椅子もあるってのに。

最近の息子は何でも自分でやりたがるのがトレンド。人のやることなすこと、実によく見ているので、うっかりしたことはできない。
あるとき、車の後部座席(チャイルドシートが据え付けてある)に自分で乗るといってきかないので、自分でよじのぼらせた。上手に座ったと思った途端、運転席と助手席の間をすり抜け、運転席に!ハンドルに前かがみになってクラクションを盛大にならしたところで捕まえた。キーを回してエンジンをかけたかったらしい。要するに私の一連の動作を真似していたようだ。

そのほかにも、料理はしたがるわ(ナマクラの果物ナイフを持たせて、適当な野菜を切らせている。きゅうりくらいなら切ってくれる)、掃除はしたがるわ(掃除機をもってきてコンセントを刺し、スイッチを入れる)何から何まで自分でやらないと気が済まない。私がちょっとでもやると、泣き喚いて最初の状態まで戻させる。

オムツはまだまだ、だが自分で洋式トイレに座っておしっこできるようになった。保育園でみんなでそろってトイレに行っているので、自分でもやりたくなったためらしい。

他の子供たちと遊んでいるときに比較してみてみると、ひとつのことを息子が一番長くやっている。そういうタイプのようだ。

こちらが話す話の内容はわかっているらしい。駄々をこねていても、「これこれこうだから、こうなのよ」と説明するとうなずいて、納得している。「次でおしまいね」というと1回やると諦める。聞き分けは悪くない。ま、泣き喚いているときは何言っても聞きゃしないけど。

実家へ戻っても、全くゆっくりできなかった。祖父母の姿が見えなくなると「おじいちゃんは?おばあちゃんは?」。どこへ行くにもついてくるし。トイレの中まで(泣)。実家の猫たちも追い掛け回され、逃げ回っていた。持っていったおもちゃも役立たず。おじいちゃんおばあちゃんがやっていること全てが興味の対象で、おもちゃどころではなかった。
どこからか懐中電灯をみつけてきてそれを右手に、リーフレットを左手に、何かの歌を歌っていた。母がよく聞いてみると子供向けの讃美歌だったようだ。ははぁ、保育園の先生の真似をして、マイクをもって歌を歌っているらしい。面白いなぁ。

保育園での訓練の成果か、ほぼひとりで食事ができるようになったのは楽になったが、その分、主義主張が出てきて、やっかいな面が増えてきた。とにかく、ひとつ楽になればひとつ大変になる。もう数年たって、いわゆる「手が離れた」状態になったとしても、また別な大変さが出てくるんだろうな。

「3歳までが一番大変だけど、一番可愛い」らしい。可愛いのは可愛いんだが、ずっと一緒にいるとうんざりするのも事実。ふーっ。こんなことを思うのはイカンことかもしれないが、私はずっと子供とは一緒にいられないなぁ。そんなに手のかからないいい子なのになぁ。ごめんよ。子育ての美味しいところも一緒に手放しているんだろうなぁ。

でも私には仕事を辞めるという選択肢は、経済的にも精神的にもないから。観劇は少なめにして、土日は付き合うようにするから。なるべく。

       ☆

前に壮くんが取り上げられていた「たから図鑑」。一番最近の記事は、オギーだった。
http://www.asahi.com/kansai/takara/OSK200504270048.html

「つぼみから花開く直前までをめでるのが宝塚」だそうだ。花が開いたときには退団、なのかな。トップさんたちはトップ就任時が花開くときなんだろう。それ以外の人は、自分で自分を見極めるのか。

博多座の星公演を観にいったとき、ケロちゃんの余裕ぶりにふと不安を覚えたことがあった。あれはケロちゃんの花が開いた瞬間だったのかもしれないな。

そしてオギーは言う。「その限られた時間に、生徒をいかに輝かせるかが演出家の仕事」と。自分の中で宝塚の演出家の役割をそのように設定しているのか(別の役割は他所で発揮しているようだが)。なんだか生徒のリアルタイムと自分の才能をパズルのように組み合わせて楽しんでいるかのようだな、と思った。いえ、決して悪い意味ではなく。文化人類学専攻ということで少し納得もした。ありのままの現状を観察することがまずあの学問の基本だから。

ケロちゃんの最後のときを、彼女にぴったりの輝かせ方をしてくれて、ありがとう。感謝しています。

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