初日

2004年10月1日 宝塚
観てきました。

オギー、ありがとう。

あれだけやってもらえたら、あれだけ惜しんでもらえたら、ファンとしては嬉しいのひとことです。歌劇団は惜しんでくれなくても、オギーが惜しんでくれたらそれでいい、です。

汐美さん、未練あるんなら辞めるの止めようよ。

まだやりたいんだよね?本当は。・・・でも何か理由があるんだよね?辞めなければならない理由が。

あなたがこんな辞め方をするとは思ってもみなかった。誰よりも納得して、思い残すことなく辞めていく人だと思っていたのに。

初日にあたって、しつこい私は未だに汐美真帆の退団を受け入れられてません。
「汐美真帆ディナーショー」がやっと公式に発表になった。

<タイトル>『Good Bye,Good Guy,Good Fellow』
<構成・演出>荻田浩一

オギーのばかー!タイトルに「Good Bye」を入れるなんて反則じゃー!タイトルみただけで泣きそうになった。本当に退団するんだなぁ(←まだ言ってる)。

退団DSができて、それに「Good Bye」と入れてもらえるってのは幸せなことなのかもしれない。日が過ぎて振り返った時、DSのタイトルだけが残っても、これは「汐美さんが退団の時のDS」って誰でもわかるもの。トップさんの退団DSでもこんなタイトルのってないもの。

オギーはこの前、しぃちゃんのDSの演出をやっていた。タイトルはさすがと思ったが、構成/演出はわりと普通だったと聞いた。今回は普通では済まされない。

おもいっきり泣かせてください。ファンはここで号泣しないと終われません。「バビロン」にくっついてたさよならショーはファンを号泣させていたはず。お稽古場風景を音で再現したり、とうこちゃんに「ブルースレクイエム」歌わせたりしていた。

ケロちゃんが出たオギー作品は「凍てついた明日」と「螺旋のオルフェ」だけだっけ?歌なんてあったかな?

オギーのさよなら演出といえばもうひとつぐんちゃんバウの「Over the Moon」があった。あれも良かった。あそこではとうこちゃんに録音で歌わせていたっけ。今回もとうこちゃんはゆうひちゃんの録音が出てきたりしたら、絶対泣ける。

「Over the Moon」の前売りの日は「血と砂」の初日で、朝、梅田で並んでから、初日の入りを観に行ったなぁ。とっても幸せだったあの日。ずいぶん遠くまで来てしまったような気がする。

でもあの日の幸せな気持ちは忘れない。千秋楽よりも思い出に深く刻まれている。秋のすがすがしい朝の空気と一緒に、いつでも鮮やかに思い出せる。

ところで、DSのチケット、取れるんでしょうか?私のような下っ端ファンにも回ってくるでしょうか?オークションで落とせばいいってもんでなくて、チケットそのものが少ないのではないか、ということが気掛かりだ。私たちの仲間がどれだけ頑張って署名活動をしていたかよく知っているから、皆が観られるように祈っている。

話変わって、息子の血液検査再検査、大丈夫でした。相変わらずある値は高いのだけど、他の値が正常なので、心配はなさそうです。ほっとしました。もし息子が病気だったら、退団公演どころではなかったから。

もしも息子が病気だったら、それはもちろん、退団公演一切観ないつもりでした。だって、そういうものだもの。息子にかえられないもの。迷いはありませんでした。

ま、大丈夫でしたので、これからは突っ走ります。でもきっと風邪ひいたりして、何か観られなくなるんだろうなぁ。

さよならの儀式

2004年9月24日 宝塚
緑野師匠はおっしゃった。

「私、ご贔屓さんが退団するの初めてなんです」

え?だって、宝塚歴16年とおっしゃってませんでした?

「だってイシちゃんのファンだったんです」

そりゃあ・・・永遠に退団公演はなさそうですなぁ。頑張ってください。

私が宝塚ファンになったのは「LUNA/BMB」からだからかれこれ4年?まだまだひよっこです。なのに、ご贔屓の退団はもう2度目。げんなり。

退団という儀式はファンに多大な心労と出費を強いる。全てが終わった時にはへとへと、財布はからっぽだ。

でもそれだけやらないと、ファンとしても終わった気になれないのだ。新陳代謝を旨とする宝塚歌劇団、「今しかみられませんよ」とあおることでファンの財布をこじあけ、劇場へと追い立てる。その戦略にハマっているとわかっていても、さよなら公演にすべてをかけて追いかけていくのだ。

間もなく初日。

まず公演を観られるだけ観る。チケット確保にも手を尽くす。FCに入っていれば、ウエアも普通のと退団用の2つ用意する。

スタークラスならDSやら何やらもある。

最後のお茶会には行く。千秋楽はなんとしても観る。同じ日にフェアウエルパーティもあるが、これはFCに入っていないと行けない場合もある。

これが大劇場と東宝と2回繰り返される。

そして最後の日、袴を身に付けたご贔屓さんを劇場前から見送って、フェアウエルパーティに行って、見送って・・・それが最後だ。

ここまで追いかけて、やり抜いた!という達成感でやっとご贔屓さんのジェンヌ姿とさよならした、と思えるようになるのだ。

前のご贔屓さんときなんて、1年前に退団発表だったから、なんだかマラソンしているような気になった。今回は短距離走。はぁはぁ。

その前のご贔屓さんの、退団公演を観に行った東宝「愛のソナタ」。「いますみれ花咲く」に春日野御大がご出演になっていたのだが、朝、劇場入り口でそのお姿を見たことがある。お隣の帝国ホテルから来られていたらしいが、なんとその後ろに数名のおば(あ)さまのファンがついておられたのだ!

春日野御大は楽屋口ではなくて、劇場入り口から入って行かれたが、そのおば(あ)さまファンたちは、手を振ってお見送りされていた。

今のFCと全くおんなじ。年齢が大体5〜60歳位プラスされているだけ。

緑野師匠、頑張ってくださいねっ!イシちゃんは春日野御大の後継者ですから!

その前にケロちゃん退団、燃え尽きましょうねっ!もしかしてもしかして来るかもしれない(可能性0.5%位か?)イシちゃんさよなら公演の心構えができるかもしれないし。

私も前のご贔屓さんのさよなら公演があったから、今回、少しは落ち着いて対処できているような気がする。

元気だよ

2004年9月21日 日常
夜中に泣いて起きたので、水(イオン飲料)を飲ませると、がぶ飲み後、ぐっすり寝てしまった。朝もご機嫌で起床し、朝ご飯、いろいろ食べた。

再び昨日の病院へ連れて行き、診察を受けた。水分も食事も摂れたと聞いて、先生びっくり。

まぁ、そんな感じだろうと母親の私から見ればそう思った。

でもまぁ、たて続けに吐くというのは実は小児科医から見たら危険なんだな、ということがわかってよかった。発熱慣れしてしまい、放っておくこともあったかもしれないし。

これからはたて続けに吐いたら、要注意にしよう。

結局、病院から帰ってきて、お昼ご飯も普通に食べ、夜もしっかり食べまくったらしい。もちろん、吐くこともなく。熱がちょっとあるけれど、多分喉の腫れ(昨日より腫れているらしい)が原因だろうということだった。

・・・でもなぁ、実は昨日のお昼ご飯、稲庭うどんを茹でて食べさせたのだけど、めんつゆがなくて自分で作ったのだが、お酒とみりん、充分煮切らずに入れたんだな。
麺好きの息子は、麺つゆごとばくばく食べていた。食べながら目の周りがタヌキみたいに真っ赤っかになっていたから、ちょっと酔っ払いもあったんじゃなないか、と思う。
先生に言ったが笑われてしまった。こちらは自主的に気を付けておこう。血筋的にもアルコールに強いはずはないのだし。

あとは、血液検査の再検査が何も問題なければいいな。ちと(かなり)気にしている心配性の母親です。

入院〜!?

2004年9月20日 日常
びっくりした。

息子が熱を出した。まぁ最近は熱を出しても、喉かな?中耳炎かな?とゆとりをもって対応できるようになってきていた。

しばらく様子を見ていたが、さらに急に熱があがってきたし、念のため病院行っておいた方がいいかな?と救急で診てもらえる病院へ向かった。

その時の症状は熱だけだったのだけど、いざ診察が始まると、先生に向かってげぼっと吐いてしまったのだ。吐くのも始めてじゃないし、大丈夫かー?と思っていたら、点滴しましょうということに。ついでに炎症反応を見る血液検査もやっときます、と。

点滴は栄養と水分を口から取れなさそうだから、ということだったが、病院に来る前、イオン飲料をがぶ飲みしていたし、昼食もしっかり食べていたがなぁ。

点滴は1時間以上かかり、その間にまた吐いてしまった。なんとか終わり、血液検査の結果も聞いた。特に心配はないが、ある値が高くて、再検査をしていたらしい。さらにしばらくして再検査した方がいいとも言われた。

先生は息子の顔をじーっと観察していた。どうも顔色が気になるらしい。

とりあえず帰ろうと待ち合いで待っていたら、また廊下に吐いてしまった。そこへちょうど先生が通りかかったため、再び診察室へ。

「入院しましょう」

びっくり!

まぁ要するに、水分や栄養を口から摂れないとこんなに小さいと危ないってことと、どうも続けざまに吐いたので、腸重積を心配されていたらしい。
レントゲンを撮り、2本目の点滴、エコー・・・、息子は疲れてうとうとしていた。

エコーでも特に心配なことはなさそうで、2本目の点滴の時に大分顔色もよくなってきて、入院せずに帰ってよし、となった。

ただし、吐いたり、顔色が悪かったりしたらすぐ連れてくること、ということだった。

一体なんだったんだー?という気分が一番強い。
私の誕生日はお盆明けで、自分の誕生日が来ると嬉しいような、でも夏が終わる節目のような、寂しい気分になる。夏休みが8月31日までだった高校生の頃までは、誕生日が来ると仕上がっていない夏休みの宿題にめまいがしていたし。

実際は9月になってもまだ暑く、学校が始まっても体育はプールの授業だった。水温は高く、着替えると汗で服が身体に張り付いた。

まだまだ夏だった。

私の大好きな季節、夏だった。

でもプールサイドで身体を拭いていると、吹いてくる西からの風が火照った身体をひんやりと包み込んだ。心地よさに深呼吸をしつつ、それが夏の風とは違うことを感じていた。

中学校のプールは、周りを工場や空き地に囲まれていて、外からは決して見えない場所だった。中学校3年の最後のプールの授業の日、最後まで居残って、水面に仰向けに浮かび眺めていた空の色は夏の色ではなかった。

まだ暑いのに、まだ泳げるのに、どうしてもう終わってしまうんだろう。

風と空がもう夏は終わりだと、私をせきたてていた。

最後のプールの授業は多分、お彼岸前の今頃だったのだろうと思う。
昨日、息子をベビーカーで散歩させながら、あの夏の最後の、秋の最初の風が私たちを吹き抜けて行った。

そう、今、そんな季節にいるのだ。

まだ夏なのに、まだ夏を味わいたいのに、周りは私の気持ちを置いて先へと進んでいる。

・・・汐美さんをまだまだ見ていたいのに。秋風が吹き始めていることに、気付かないでいたかった。

あと100日

2004年9月18日 宝塚
ケロ友が1週間か2週間前に「あと3ヶ月しかないんだよ」と嘆いていた。
んなわけないだろ?まだ3ヶ月半あるよ、と言って慰めた。

○ヶ月でカウントするからあいまいになるんで、ちゃんと日数で数えなきゃ、と思っていたが最近息子は私が一緒にいる時、何か他のことをするのを許さないので(含インターネット)、家では全くなにもできない。会社も仕事が忙しいし・・・と放っていて、やっと今日数えたら、ちょうど100日だった。

泣きたくなった。

たった100日しかないんだもん。

友人からCSのビデオをもらった(・・・ってホントはいかんのですね?でももういいことにして・・・)。博多座の分を丁寧に1本にまとめていてくれた。

博多座の頃、もう退団を決めていたらしい。

お稽古場で、楽しそうに自然にふるまっている汐美さん、座談会でいつものように司会をしている汐美さん、何より舞台で思いきり演じて、思いきり踊っている汐美さん。

あなたはこれらを全て捨てることができるのでしょうか?

未練はないのでしょうか?

もちろん、それらを振り切る覚悟で退団を決められたと思うのだけど。私はまだまだ未練たっぷりで。

そして悲しい。

博多座のショーの階段降りは黒エンビだったことに今頃気がついた。ちょっとだけ救われた。宝塚で着る最後の衣装(袴除く)が黒エンビで良かった。

これが絢爛だか豪華だかいう前のショーのような、センスが悪いんだか単に盛り上げたいんだかわからん衣装で退団だったらとび蹴りものだ。

最後がオギーでよかった。

DSは誰がやってくれるんだろう?齋藤先生かオギーだと信じている。
プロ野球がストライキをやるらしい。やれやれ〜。面白いから。ちょっと引っかき回さないと変わらないみたいなんだもん。

楽天やライブドアが新規参入したいと手を上げた。

え?と思った。

だってそんなにカンタンにプロ野球球団て作れるものなの?お金さえあれば作れるものなの?全然しらなかった。
プロ野球球団というのは、歴史やらなんやら脈々と受け継がれているものがあって、素人がカンタンに参入できるものではないという思い込みがあった。

それが500億だか2500億円だか持っている人なら、作れちゃうんだ。

まるで「サカつく」の世界だ。

球場と選手をそろえればいいのか。なあんだ。

Jリーグチームは毎年どこか出来ていて、もう30チームになるという。最初は10チームだったのに。でもJリーグの方が実際は作るのは大変なんじゃないだろうか。

Jリーグのチームを作るには、お金は野球程はいらなくても、下部組織というものを作らなければならない。野球でいう2軍のサテライトはもちろん、ユース、ジュニアユース、ジュニアとそろえていかねばならない。
これだけ下部組織を作るには、それだけ指導者もいるし、練習場も、運営するための事務局もいるわけで、そんなにカンタンではないように思う。

下部組織以外にも、もちろん球場にも条件があるらしいし、球団運営がうまくいかねば、リーグの方から指導もあるけど、人間がらみのことが一番大変なんじゃあないか。

そういうものがないプロ野球なら、考えようによってはお金さえあれば作れるなら、うだうだ言ってないで作らせばいいじゃないかと思う。

Jリーグ設立を推進したのは現サッカー協会会長・川淵三郎氏。川淵さんがJリーグを作ろうとしたとき、「時期尚早」という声があちこちから聞かれたそうだ。
その時川淵さんは「時期尚早という人間は、100年たっても時期尚早と言うだろう」と、設立に踏み切ったそうだ。

まさにバブルの最後の時だった。あの時設立していなければ、おそらくJリーグはできていなかっただろう。Jリーグができていなければ、当然W杯などできなかった。

新しいプロ野球球団も来年ちゃっちゃと作ってみて、ダメだったら再来年修正すればいい。そうやってJリーグも修正を繰り返しつつここまで来たのだから、やればできるのだ。

「やればできる」ってことがバレるのがイヤなのかもしれないな。

私にお金があれば〜、汐美真帆さまのおばさまになる!もっと楽なジェンヌ生活を送らせてあげられたろうに。私にできることは今はお手紙渡すだけだもんなぁ。

私も「時期尚早」とばかり二の足を踏んでいないで、やりたいことはやっていこうと思う。私には子育て後の自由なんてあり得ない。だって育ち上がった頃にはもうおばばよ!

ところで、この前書いた日記、ねぼけながら書いてたな。なんだか自分が感受性が強いと自慢して、あげくにわけわからないこと書いてる。うーむ。ま、いいか。あんまり気にしないでください。

感受性と洞察力

2004年9月13日 日常
ある方に言われたことがある。

「あなたは感受性は鋭いが、洞察力、観察力が足りない」

・・・その通りでございます。言われた時には、がっくりうなだれるしかなかった。まだ数回しか会ったこともなく、その方とのコミュニケーション(要するに先生だったのですよ)には洞察力と観察力が何より必要だったのに、それが足りん、と断言されてしまったのだ。

感受性が強いというのも正解だ。

ほんのわずかな街の変化、自然のうつろいはもちろん、人の言葉に必要以上に傷付き、そしておそらく、普通の人は感じられないことも、感じてしまう(あんまり詳しく書かないけど)。様々なことが私に押し寄せてくる。

でもそれらを、私は感じているだけなのだ。

観察し、認識して、把握し、考察を加え、再生産するという事をほとんどやっていない。

持って生まれたものなのか、あまりに感受性が強すぎると自己防衛しているだけなのか。・・・単に何も考えていないだけ、面倒くさがりが主因だと思うが。

感受性が強いことは不幸であり、幸せだと思う。

まるで皮を剥いだばかりの傷跡のように、風のそよぎひとつにも身震いするような痛みを感じるけど、皮があってはわからないようなわずかな空気の動きも感じられる。

観察力、洞察力が不足しているというのは、仕事をする上でも、育児をする上でももしかして致命的なのか?と思ったりもする。

先生に指摘されたのはかれこれもう10年以上前のこと。あの時から訓練していれば、もっと洞察力が上がったかもしれない。もっと違う人生があったかもしれない。仕事でも出世したかもしれない、お金ももっと稼げたかもしれない、有名になったかもしれない。

でも、と面倒くさがりの私は思ってしまう。今、私は決して不幸でないもの。毎日楽しく(今はブルーだけど。汐美真帆さまのせいで)生きている。

強すぎる感受性も歳とともに鈍ってきたのか、いや、鈍感なフリをすることもできるようになってきたし。でも日々、押し寄せてくるいろいろなことを、楽しむこともできるようになってきたし。

洞察力というものを、普段の生活では人への思いやりに置き換える努力を、これからはしていきたいな、と思っている。



しかし、洞察力があればもっと楽しいこともあったかも?とは思う!それを痛感したのは、何を隠そう宝塚だったりする!

なぜ私は雪組が苦手なのかなぁ。薄いんだよね。

花組の「カクテル」のグラッドアイ、気持ち悪くてしょうがない。

どうしてエリザベート、あさこちゃんだと笑っちゃったんだろう。コムちゃんやゆうひちゃんならOKと思うのにな。

いろいろ感じるわけだ。でも感じるだけで、それを誰かと語り合っても、語り合うだけで感想にしかならない。言いっぱなしで終わってしまう。何なんだろう、原因は?なぜ?すっきりしないことが多かった。

ところがっ!この辺りの答え、全て緑野先生の日記にございました!!

洞察力、というのはこういうことをいうのだな、と感じ入った次第。

ですから、緑野先生、とお呼びしたいと思っていたのにNGが出てしまった。では緑野師匠ということでいかがでしょう?

「私、今、ケロちゃんしか好きな人がいないんですよ。まみさん卒業の時はもうケロちゃんみつけてたんで、かなり救われたんですけど。あ、でもそういえば、ちょっとまことちゃんがいいな、と思います」と言った私に、緑野師匠はにやりとおっしゃった。

「ふじこちゃん?紫水梗華ちゃん?ケロちゃんに似てますよね」

そうだったのか。・・・結局私はケロちゃんの面影を追っているだけなのか?・・・顎の尖った人しか好きになれないのかもしれない。

携帯機種変更

2004年9月10日 日常
緑野先生とお食事した後、汐美DSに向けてメールを打ちまくっていた私をアクシデントが襲った。

ぎゃー!何!?この送信簿!メールが全部全部化けてる!!!

この春先から実はかなり調子が悪かったMY携帯。薄型で大売り出ししたけど、同時期にカメラ付きが標準となって、シェアを落とす原因となってしまったDocomoのPの携帯。

私はカメラはデジカメを持ち歩いているのであまり必要性を感じず、この薄さ、軽さ、ワンタッチでオープンする使いやすさが気に入ってずっと使っていた。

春、一度全ての文字が化けた。送信簿も受信簿もアドレス帳も。

真っ青になって再起動したらなんとか元に戻り、慌ててバックアップを取ろうとしたけど、その頃はまだ職場復帰もしておらず、ヨドバシに行く自由も無く、バックアップソフトを入手できず全部手書きで写しましたよ、電話番号とアドレス帳。

その後も1ヶ月に1度の割合で化けては、休ませると元に戻るを繰り返していた。
だましだまし使っていたのは、気に入りの端末が出なかったせい。私は最初からずっとP(Panasonic)を使っていて、気に入っている気にいないは別として、操作性が同じで面倒じゃない、ACアダプタも使えるっていうことも大きくて、また次もPと決めていた。

FOMAが出始めて、いまいちムーバに力が入らなくなってしまったDocomoの端末に魅力を感じなかったのだ。

買い替えなきゃー、でも気に入らないー、でもヤバいー、と思っていたが、とうとう、その日が来てしまった。

あ、これも汐美真帆さんが退団発表するからこういうことが起こるんですね。

今回は何回再起動しても全く元に戻らない。受信簿もアドレス帳も大丈夫。送信簿はダメだが送信はできるらしい。でも、送信した内容の控えがなくなる。いつぶっ壊れるか分からない。

震え上がった私は9日の朝、買い替えることを決意した。

この汐美さん退団のせっぱ詰まった時に、宝塚ファン3種の神器のひとつが使えなくなるなんて考えられないし、息子の保育園との連絡はこれが頼り。何かあった時には携帯でつながる母子なのだから。

ネットで調べると、ドコモショップはいずれも10時開店。会社を遅刻して買いに行くのだから少しでも早く済ませたい。梅田についてふと、ヨドバシカメラが9時半からやっていることに気が付き、機種だけでも決めようと思い、携帯のフロアへ足を運んだ。

さすがにガラガラの店内でゆっくり見定める。今のDocomoのムーバでは、252系のちっちゃい分か、506系のお財布携帯しかない。その前の普通のカメラ付きがいいなと思っていたのに。店員に聞いてももうないという。

FOMAは通話エリアが狭く(実家では普通の携帯ですらあやしい時がある)、バッテリーが長持ちしないと聞いていたのでパス。

となると、おもちゃみたいなちっちゃい系はイヤだから、お財布携帯となる。迷っている暇はない。

Docomoショップで買おうと思っていたが、さすがヨドバシ、店員教育が行き届いていて、若いにーちゃん店員だったがおまかせくださいの雰囲気に満ちあふれていて、ここで買っちゃえ、となった。

アドレス帳の移し替えも予定時間より早くすみ、新しくなった携帯を手にすることができてほっとした。持っていない間に保育園から電話がかかってきたらどうしよう、今、地震がきたらどうしよう・・・。
わずか30分程度なのに、携帯が手元にないということに不安を感じている自分にびっくりした。

待っている間に液晶保護シートとストラップを物色。ホイッスルのストラップを買った。もし地震で何かの下敷きになったとき、携帯にホイッスルがついていれば吹けるという話を聞いてなるほどな、と思ったので。

受け取った足で、近くのDocomoショップに向かう。ショップというよりステーション、かな?かなり大きな所。以前、知人の日記で、アドレス帳だけでなく、メールもブックマークも移してくれるサービスがあると知ったので。
他店で買っても無料やってくれるということなので、頑張って行った。

なるほど、知人のレポート通り、パソコンを仲介して古い携帯から新しい携帯へ、データを移行できた。全部で20分程度しかかからなかった。オペレーターのおねえちゃんが付きっきりで面倒みてくださったし。

ということで、新しい携帯が手元にきて、ほっとしている。古い携帯はまだ充電を続けている。息子が前々から欲しがっていたのだ。古い携帯は全部とってあって、全て息子に与えているが、ママの使っているような二つ折りが欲しくてたまらなかったのだ。

大喜びでボタンも光り、発信音もする携帯を握りしめている。当分は使えるように充電してやろうと思う。

新しい携帯への感想はそのうちに。2年半もたつと大分かわってますなぁ。

DS(

2004年9月8日 宝塚
私はちょうどその頃、緑野先生と楽しくお食事してました。

ケロちゃんの退団をなげき、今後のスケジュールを打ち合わせ、思い出話に花を咲かせ、その他公演のお話などなど、尽きること無くしゃべっておりました。あああ、もっとおしゃべりしたかった。

途中、着信があったのに気づき、そのケロ友に折り返し電話しても出ず。メールじゃなくて電話って何か急ぎのことがあったの?と思いつつ、再び先生とおしゃべり。

友人と連絡が取れたのは、名残を惜しみつつお別れした後でした。

・・・汐美真帆、DS決定。

しかも1日しかない、と。なんとか期間追加すべく活動を開始してくれと。

どひゃー。慌ててメールを打ちまくり、家に帰って寝ない息子を寝かせつつパソコンに向かい、泡吹いてました。ここで頑張っておかないと、えらいことになります。

DSは、ちょっと前のお茶会で「今、いちばん何がやりたいといったら、DSです」と言っていた位、やりたがっていたこと。ファンも退団前にまったく歌のない今の公演など見捨てて・・・いやいや、少しでも歌を聴きたい、最後に思い出の歌を歌って欲しい、汐美真帆オンステージを楽しみたいと熱望していました。

でも日程が厳しく、難しいだろうというのがファン仲間の共通見解でした。

それができる!ある!嬉しい!・・・が、コトは単純ではないです。

チケットです。

前のDSも宝塚ホテルの「宝寿」でした。「宝寿」は最大ディナー形式で600人入りますが、ステージ部分が必要ですので、実際は400人程度でしょう。今回も「宝寿」とすると同じだけです。

東京では日程的に厳しく、DSはできそうにないようです。

となると、1日多くて2回のDSでは、チケットが回って来ないのです!

汐美ファンをなめてはいけません。「血と砂」の時だって、私は10回観ました。きゃ、がんばったわ、私、なんて思っていたら甘かった。10回は普通でした。20回以上観たと言う人が何人もいたのです。

DS、開催されるだけ全部観ようと思っている汐美ファンも多いはずです。

これが最後なのですから。

だから頑張らねば!なんとか期間を増やし、できれば回数も増やしてもらわねば、私のような下っ端初心者ファンにはチケットは回ってきません。

もちろん、いざとなれば貯金を取り崩してでも観たいと思っていますが・・・。

というわけで、メールも手紙も、さらに書き足りないと言って封書も出しました。まずは時間勝負なので自分でできることから、ですが。

今は吉報を待つばかりです。

ふんっ

2004年9月7日 宝塚
地震が何度も来るのも、台風がたて続けにくるのも、ケロちゃんが退団発表なんかするからです。そうに決まってます。

まぁ、その後、あさこエリザベートなんて発表があってうちらの悲しみごとはすっとばされた感がありますが、いいんです。放っておいてください。来年のことなんか関係ない私たちは、私たちで悲しんでますから。

何度寝て何度目が覚めても、やはり退団は現実であったようで、ここ数日、まるで覚めない悪夢を見ているような気分でした。

やっと少し落ち着いてきましたが。

私は入り出をしない人間で、でもスターさんしてるケロちゃんが好きで、花の道からよくながめていました。

でも今回は、どうしても近くから顔を見たくて、声を聞きたくて、入り出に何回か行ってしまってます。

前のご贔屓さんは押しも押されぬトップさんで、退団発表から実際の退団まで実に1年もあったので、その間にゆっくり気持ちの整理をつけ、舞台を見ることができました。トップさんですからメディアや出版物(当時はスカステはなかった。・・・なのに今はアドバイザーやっておられる)で、いくらでも触れるチャンスがありました。

でもケロちゃんは、こっちから近付いていかないと、何も得られないのです。

お元気そうでした。こっちがちっともすっきりしてないのに、とってもすっきりした顔でした。

相変わらずまっしろけ。恰好いいお兄さんでした。

このお兄さんが、もしかして退団後髪の毛を伸ばしたり、もしかして結婚してウエディングドレスを着たり、もしかして・・・妊婦になったりするのか?と思うと、なんとも言えない気持ちになります。
やめてくれーという権利はないけどさ。このまま宝塚の近くに住み続けるなら、私が関西やムラ周辺をうろついていると出くわす可能性もあるわけで。

普通のジェンヌは卒業後は東京行っちゃうから、あっさりさっぱり気持ち的にもOGさん、さよーならー、って気分になれるんですけどね。

これだから地元出身のジェンヌさんはやっかいです。

寿(結婚退団)という噂もありますが、どうでしょうね。既婚のファン仲間と「結婚ってそんなに楽しいもんじゃない、期待するな」と言い合っております。

なんだか、結婚願望の強そうな、よい奥さんに憧れてそうな、そういう方ですからね、実は。

15歳で音楽学校に入って、そして今30歳。人生の半分が宝塚。誰よりもジェンヌであること、男役であることが、自然である人。だからこそ、リセットには時間がかかるかもしれません。だから、まだまだ若い、まだまだやれるうちに退団することはよいことなのかも。

・・・でも私は納得してないぞ!私たちが「汐美真帆」を失わねばならない、納得できる理由がわかるまでは!

それほど、あなたのことが好きなのだ。
ファン仲間でもまさかこの公演と受け身を取れている人はほとんどいませんでした。

油断したよなぁ。カレンダーがあったから。それにてっきりわたるくんかとうこちゃんと一緒に辞めると思っていたのに。

私のご贔屓さまの名前は「汐美真帆」さんです。

そんなのすぐわかりますよね?好き勝手書きたかったので、検索にひっかからないよう、この文字を書いていませんでしたが、退団発表のあった日には書いていいでしょう。

・・・やっぱ辛いわ。

人口減

2004年8月31日 仕事
数日前の新聞で発表になっていたが、2004年の1月〜6月の出生数の
速報が出ていた。56万人だったかな?
去年よりさらに5000人程度少ないという。

現在年間の出生数は110万人程度。大体1%弱減っている勘定だ。

来年の合計特殊出生率発表が楽しみだわ。

そんなん、下がるに決まってるじゃん!今年も1.29とかなんとか、
予想以上の減少率だ、年金がどうだ、大騒ぎになっていたが、
来年はもっと騒ぎになるだろう。

自分の周りの狭い範囲を見ていても、子供はさくさく減っている。
生む気のないひと、いっぱいいる。生んでも一人。
1+1=1or0。
今後増える予想なんか全くできない。

なのに、政府予想は現在が底で今後増えることになっているそうだ。
なぜそんな予測が出来るのか全く理解に苦しむ。

高速道路や空港を作るときに、利用予測数をはじき出し、
それをベースに採算を計算し、料金を決めたりするが、
「どんな予測をしたらそんな皮算用の数字が出るんだ」と
思う数字をベースにしたりしている。
なんだか高いお金を払ってそういう数字を出してくれる
コンサル会社もあるようだが。

それと同じことが、国の人口に対してもなされている。
ちょっと考えればわかることなのに、なぜそんな楽観的な
予測ができるんだろう。

2005年には、日本の人口は減に転じるという。
つまり「死ぬ数」が「生まれる数」より多くなる、ということなのだ。

子供が減ることはまずい、よくないと世のおじさんたちは言う。
でも自分の部下が妊娠したら、嫌な顔をするのが世のおじさんだ。
おじさんは年齢ではないからね。女のおじさんだっている。

うちの会社もそういうおじさんたちがいっぱいいる。
おじさんじゃない人もいるけれど。

経営が、会社そのものが厳しい時に子供なんてどうでもいい話だ。
働ける人しか来て欲しくないだろう。

会社だけではない、ベビーカーを押して歩いていたら迷惑顔、
子供を連れて電車に乗っていたら邪魔者扱い。
マナーの悪い子連れも多いから気持ちはわからないでもないけど。

それが日本の今の状態だ。

だから、人口減は時代の要請なのだと思う。日本という国全体が
“子供はもう要らない”“人口減へ”と向かっているのだ。

子供を産まない女が悪いとか、結婚しない若者が悪いとか
責任の摺り替えをしないで欲しい。

もうそろそろ、日本全体が腹をくくった方がいいのだと思う。

残業

2004年8月25日 仕事
今日、家に帰ると息子は夢の中だった。

一日に何分かはしっかり抱っこしてやりたいと思っているのにこの始末。すまん。

私の職場は残業の多い職場だ。残業代?そんなもの、出ませんよ。年俸制という名の下に、サービス残業ばりばりよ。タイムカードもないし。ま、その分、いくら遅刻しても、休んでもわかんないけどね。有休届け、半分も出してないや。届けは出さなくても仕事は机の上に積まれていくだけだし。

出産後、復帰の相談に言った時、時短は認めない、残業もしてもらわないと困ると言われた。

出産後、子供が3歳になるまで(だったっけな?)は労働時間の短縮というものが法律で認められているはずなのだ。でもそれを持ち出すと「労働基準法なんか関係ない!」と言い切られた。

私より前に出産し、復帰した他のママ社員は認められてたのに、なぜ私はアカンのよ!?どうも、そのママ社員を抱えている部署が、彼女たちがさっさと帰宅するため、フォローするのに苦慮しているという背景があるらしい。
フォローする側、上司とかだけじゃなく同僚社員たち含めた感情的、経済的わだかまり、のようだ。

復帰の相談をした時期も悪かった。年度決算で売り上げでキリキリ言ってる3月下旬だったもの。これがちょっとずれてたら、そこまで言われず済んだかもしれない。

そりゃ、わからんでもない。私が復帰したとき、一時的に別のママ社員と同じ部署になって、その彼女が時短で帰るために私が残業するはめになって、納得いかなかった。うちの子の方が小さいんだぞ!
経営する側(部署単位で収支をつけるので)から考えても、難しいだろうなぁと思う。人件費をどう使うか、だから。

というわけで、私は時短もせず定時までは会社にいるし、残業が常の仕事だから残業もしている。
定時まで会社にいるために、残業するためには周りの協力があってこそ、だ。本当に感謝している。

残業しすぎると今日のように息子に会えず一日が終わるということもある。

しすぎるといってもたかが会社に9時過ぎまでいただけなんだが。子供がいない頃なぞ、9時なんてざらにあった。

子供がいないというか、妊娠中も元気に残業していた。妊娠後期、繁忙期に当たってしまい、とうとう臨月入るまで会社に行っていた。もちろん、残業。妊娠9ヶ月なのに家に帰るのが日付け変わってからなんていいのかなーと思っていた。

往復2時間通勤+残業まみれ(おまけにあやしい残業食)、そのお陰で余計なことを考える暇もなく、体重もあまり増えず、妊娠期間を過ごすことができた。
忙しくなければ、心配性の私のことだから、毎日まだ見ぬ子のことを心配して過ごしていただろう。やはり高齢出産だったから、無事に生まれてくるかは気になっていたから。

当時はそれで良かったかもしれないし、残業するのがイヤじゃなくて、あまり調子に乗って会社滞在時間を長くするのはよくないかもしれない。

今はまだ息子もわけわかってない状態だが、段々、そうもいかなくなってくるだろう。

他のママ社員のように、ある部分、さっと帰れる強さが欲しい。私が残業してしまうのは、私の気の弱さも原因だろうから。何が大切か、よく考え、ふるまえる賢さもそろそろ必要だと思う。
ああもう、日記、追い付きゃしない。

ちゃんと実家から帰って、ちゃんと仕事行ってます。息子も元気に保育園に通っております。7月以来熱出してないから無気味。そろそろ熱出すんじゃないかあ?と怯えております。
これから仕事、忙しくなるのに。忙しい時に熱を出すのはお約束、でしょうなぁ。

さて、今日のお題。

宝塚のチケット流通は独特です。

最初はチケットの取り方がわからず、無駄なチケットを取ったり、欲しいチケットが取れなかったり、一枚も二枚も上手なおばちゃんにチケットふんだくられたり、いろいろありましたさ。

そんな私もかれこれ宝塚ファン歴4年ともなると、それなりにコツもつかみ、人脈もでき、チケットには困らないようになりました。

素人さんにとって最も難しいのは、チケットの価値の判断、だと思う。宝塚のチケットは劇場・公演日時・座席で価値が違うのだ。たとえ同じ座席同じ値段でも。もちろん、欲しい人にとってはプラチナでも、欲しくない人には紙くず同然ってのもあるけれど、まぁ、だいたい宝塚ファンの中での価値付けは一緒。私も判断がつくようになった。

今、一番価値が高いのは、宙組東宝のファントム楽かな?いや、エンカレッジコンサートかもしれない。

価値は刻々と変わるもので、もし明日、誰かの退団発表があったりしたら、価値がころっと変わるだろう。退団発表がなくても、次の公演のチケットが発売になったらまたそれらが交換の場に登場してくる。
私もうっかり手に入れて持て余していた大劇場の千秋楽B席が、あっという間にプラチナに化けたこともある。

プラチナ化するばかりでなく、叩き売りっていうのもある。半額以下でも引き取り手がないかなしいチケットというのもまた存在するのだ。

そのように、宝塚ファンの間では暗黙の了解的チケットの価値基準があり、それに基づいた交換という市場がある。

ネットをしている宝塚ファンならごく当たり前の行為だと思うが、他の音楽ファンやスポーツファンでもそういう“交換”なんて市場が存在するのだろうか?

市場を成立させる場は掲示板。一度掲示板に載せるとウイルスのえじきなんだけど、やはり便利。これまで交換以外にも、譲ってもらったり譲ったり、お世話になってきた。

今日、そのうちのひとつが突然閉鎖された。

ぎゃー。今一番大手で、掲載数も多い場所だった。もっと多い場所もあったのだが、かれこれ2年半前「血と砂」上演真っ最中に突然閉鎖された。

いい出モノがないかアクセスしていたところだったのに、急にアクセスできなくなって、トップページに戻ると「閉鎖しました」との宣告が。

ひーん・・・。

ここで博多座のチケットも譲っていただいた。とてもみやすくよいお席だった。いつぞやの星組DC公演のチケット、譲り先も見つけた。喜んでもらえて何よりだった。これから雪組DC公演、お安いチケットを探すつもりだった。

閉鎖するのは掲示板運営者の勝手だと思う。別に何の利益や見返りもないのに運営し、詐欺が起こると(起こるんだよ、これが)解決のために尽力したり、関わりを持たざるを得ないようだ。

交換のための市場があるから、交換のためのチケット取りという“観劇”を目的としないチケット取りが存在してしまう。でもそれが悪いとは私には思えない。

交換の市場に参入できるのは、余分なチケットを取る根性、チケットの価値を正しく判断できる経験、うまく交換できなかったときに損失を自分で被る経済力と性根が必要だもの。

常にチケットの価値を追いかけ回し、交換に生きるってのもなかなか大変だと思う。
いい席で観たい、価値ある公演(その人にとって)を観たいという欲求も必要だし。

私は今はそれほどのエネルギーはないし、席が悪くてもあまり気にしない人間なので、交換のマーケットに正面切って参入する気はない。

でも時々は交換したいと思う場合もあるわけで、その場がひとつ消えてしまったのは大きな痛手だ。

さて、これからどうしよう・・・。いい場所をまたさがさないといけないな。
実家に帰った目的その2。

友人たちと誘い合わせて、お仏壇にお線香をあげに行かせていただいた。

中学時代の恩師が亡くなったと聞いたのが7月中旬だった。2〜3年前から体調が思わしくないとは伝え聞いていたのだが、友人から連絡があり、地元の新聞の訃報欄に名前が載っていた、と。

まだ50代だったはず。何よりとても闊達、豪快な方で、歳若く教育委員会に行かれて、出世コースに乗っておられた方のはずだった。

お通夜やお葬式を知っていれば行ったのだが、間に合わず、私の帰省に合わせて友人にも日を合わせてもらい、行くことになった。

卒業以来、実はお目にかかったのは1度しかない。どれだけ変わられただろうと思いつつ、遺影を拝見すると、先生は全く変わっておられなかった。

肝臓にできた癌が原因だったそうだ。一度は手術で持ち直され、職場復帰も果たされたのだが、亡くなられたそうだ。

奥様がいてくださり、私が持って行った中学校の卒業アルバムを見ながらお話した。

嬉しいな、と思ったのは、私たちの中学に赴任しておられた10年間は先生にとっても楽しい時代だったとおっしゃっていたこと。

確かに私たちにも楽しい時代だった。こぢんまりした田舎の中学校だったので、それぞれがのびのび個性を発揮できた。勉強が得意な子、スポーツが得意な子、生徒会を仕切る子、美術室の片隅で絵を描いている子・・・みんな自分が自分でいいと思える場所だった。他人は他人でいいと認められた。それが当たり前だと思っていた。

もちろん、いいだけの場所ではなかった。恩師は差別をする先生ではなかったが、すさまじい差別をする先生もいた。無責任、無気力な先生もいた。いろいろだった。

友人関係も、いろいろ。今回一緒に行った友人たちだって、本気の大げんかしたヒトたちだ。校舎裏に呼び出して対決したことだってある。

でもそれも遠い昔だ。いい思い出として、笑っては話せる。

その後、高校に進むと自分が自分のままでいることは、なかなか許されなくなった。時代も変わっていった。

小学校の時はまだまだ夢の中にいたようで、あまりよく覚えていない。中学時代のあの3年間はあれだけ鮮やかに覚えているのに。

もう20年以上前のこととは思えない。多分、30年、40年たっても同じだろうと思う。いい時代を過ごさせてもらったことを、幸せだと思う。

免許更新

2004年8月12日 日常
実家に帰った目的のその1。

この日は運転免許の更新をしに行った。5年ぶりかなぁ。せっかくゴールド免許だったのに、ちょっとした違反で今回は講習付き。

でも、次にもらえる免許って5年なの?顔写真、要らないの?住民票っていらなかったっけ?更新期限は誕生日の1ヶ月後まで?でも私の今持ってる免許証は有効期限は誕生日までだよ?

更新のお知らせハガキを見たらなんだか疑問がいろいろ。今までとちょっと違うような。

更新センターまで行き、講習を受けて疑問は解決した。2〜3年前に道路交通法が改正され、いろいろ変わったようなのだ。
有り難いのは、免許の更新期限が誕生日の1ヶ月前から1ヶ月後までに広がったこと。
たった1ヶ月間の間に更新しなければならなかったのは結構プレッシャーだった。

新しい免許(ブルーだ。ちぇっ)を受け取って、外へ出る。喉が渇いたので近くのコンビニまで行ってお茶を買う。免許更新センターの周辺には、証明写真を撮ってくれるお店がいくつもあった。

あのお店、これからどうやっていくのかな?

正直、証明写真がいらなくなったのは有り難い。面倒だったし。それに・・・いい写真撮らなくちゃ、と思うとそれも大変だった。

いつだったか、そのヘンのセルフの証明写真コーナーで撮っていて、ふと気を取られて上を見てしまって、出来上がった写真の私は白目をむいていた。
ま、いいやと申請用紙に添えて出した私に、書類受付のおじさんは「おいおい・・・頼むよ」と言っていた。それでも受理してもらえたけど。

妹にそれを告げると「何か事故とかに遭った時、ニュースで流れるときはあの写真が使われるんだよ!?」と恐ろしいことを言った。私はそのとき、次に免許更新があって、新しい証明写真を提出するまで、決して決して事故に遭うまいと心に決めた。

でも、今回から証明写真、要らなくなったし、どの写真が使われるんだろう?そもそもニュースの時の写真って免許の写真なんですか?

民族大移動

2004年8月11日 育児
お盆休みということで、実家へしばらく帰ることにする。

・・・子供と二人っきりでずっと過ごすなんてやってられなーい!
息子も広い場所で遊びたかろう、じじばばも孫とたわむれたかろう。

そうよそうよ。

でも実際は、実家に帰る方がしんどいことも多々ある。

帰るための荷物は膨大になるし、帰ったら帰ったで、上げ膳据え膳どころか「あんたか作ると普段食べられないものを食べられる」とおだてられて食事を作るはめになる。
息子はちやほやされすぎてはしゃぎすぎ、この前帰ったときはきっちり夜中に熱を出した。

その轍を踏まないよう、今回はゆっくりしたスケジュール。

午前中、博多座遠征の疲れを癒し、息子にも体力温存させるため、冷房かけてお昼寝。つい昼過ぎまで寝てしまった。

荷造りは前日からしておいた。

大変なのは車への荷物の積み込み。マンションはこれが困る。玄関から車までが遠いのだ。息子を部屋においておくわけにはいかないので、一度に運べる量にするか、何度か往復して積み込むしかない。

昼食後、買い物に出るついでに荷物第一陣を車に積み込む。

思えば出産直後に帰った時は大変だった。ミルク用のポットやベビーバスまで積み込む必要があったため、段ボール箱で運んだもんなぁ。少し大きくなってからはベビーラックとかも運んだ。

それを思えば今は、着替えとおもちゃ、そんなもん。紙おむつや食卓用のベビーチェアは車に積みっぱなしだし。

第二陣で自分の荷物も持って、車へ。息子をチャイルドシートに押し込み、GO。

そうそう、忘れてはいけないのは飲み物とおやつ。いつ何時渋滞に巻き込まれたりして、車から離れられなくなることがあるかもしれない。私は我慢できても子供は我慢できない。だから小さいペットボトルとビスケット程度は手元に用意しておく。

お盆とはいえ、高速を通るわけではないのでちょっと混んでるかな?という程度で、1時間少しで実家に着いた。

待ちかねていたじじばばにちやほやされ、息子はご機嫌。

大人の夕食を取り分けながら食べる息子。そういえばいつの間にか、運んでくる荷物の中から離乳食関係のものがなくなっていた。夜、寝る前に飲むミルク位かな。

ちょっとずつ育児は楽になっているのかもしれない。

まっしろ

2004年8月10日 宝塚
博多座に行ってきた・・・。もう1週間以上前のことだ。

観てきてすぐ感想を書けば、もっと熱々の気持ちがのっかった文章になったと思うのだけど、いざ、書こうとしたらアクセスできず、しゅるしゅると気が抜けてしまった。

それでもせっかく行ってきたから、覚えていることだけでも書きたいと思う。書いているのはこの日ではないです。

朝、新幹線に乗って、博多駅に降り立った途端感じたのは「暑い!」ということ。熱気が身体を包み込む。地下鉄で博多座前まで行って、地上を歩き始め、直射日光を受けるとこれまた暑い!何せ太陽光線の角度が違う。じりじりとこんがり焼かれているようだった。

夏生まれなので割と暑さには強い。日本で一番暑いに違いないと思っていた大阪でずっと仕事をしているのだから、博多でも平気と思っていたら、暑さの質が違っていた。ひー。

でも、鹿児島から来ていた友人は「博多涼しい、楽勝」なんて言っていた。どんなに暑いところなんだ〜。

本当なら2公演観たかった。でも平日なので、2回目の公演が6時からで、最終の新幹線にも間に合わないのだ。バスも間に合わない、夜行もダメ。翌朝7時には家についていないといけないってのもネックだった。

たった1回の公演、気合いを入れて観る。追いかけるのはひたすらご贔屓さまだけ!あ、でもちゃんと話は追える。

芝居は確かに、前の作品の2.5倍の出番。でもなー、衣装は一着着たきり。しぃちゃんとほぼ同じでとっさに居場所を特定できなかったりして悲しい。

まぁ、舞台の上にはいますわな。

いろんなヒトに出番が割り振られているので、ロクな役がないのも事実。タニちゃんの役だけはま、いいんだけど、あれもなー。

ひたすら、檀ちゃんとわたるくんのラブラブぶりを1時間半観ていただけのような気がする。いや、いいんだけどね。檀ちゃんはひたすら美しく、凛としていて素敵だし、わたるくんは男らしいし。

絵巻物。ショーですな。酒井先生の作品は。

そしてお待ちかねのショー。大好きな大好きなオギーのショー。このために来たといっても過言ではない。

オギーっぽい毒のある場面のと明るい場面が交互に出てくる。でもとてもわくわくする。ご贔屓様が出ているまともなショーを久々に観たという満足感で満たされた。

ご贔屓さまは芯になる場面も全然ないし、しくしくとなる立ち位置もあるんだけど、出てくる場面全てでとても素敵だったからもうそれでいいやと思えてしまった。

檀ちゃんやうめちゃんとからむ場面があるんだけど、首筋にあの大きな手を這わせたりして、男らしいったら。・・・また女捨ててます。いや、恰好いいし色っぽいからいいんですけどね。

大劇場ではもっとひどい扱いになるだろうけど、いくつか素敵な場面には出してもらえるだろうから、そっちで頑張って観ようと思う。

今回、やや下手の通路際の席だった。なぜか目の前の2席が空席で、舞台を見渡せるいい席だった。

お芝居で上手に立っていることが多いご贔屓さまの顔がよく見える。中国モノの独特のアイラインを黒で入れているんだけど、その中心にある瞳、黒目が透き通るようで美しく、みとれていた。
ご贔屓さまは白目が多いので三白眼なんて言われることが多いけど、黒目が実はとっても茶色いのだ。

ショーでもスーツの袖をまくって腕を見せているところがあるが、その腕の白いこと白いこと。

舞台を降りた実物、現物に近くで会うともうびっくりする位白い人だ。
白人の白さとはまた違う、黄色人種なんだけど色素をどこかに置いてきたような白さだ。

なのに博多座の入り、帽子も日傘もなく、直射日光の下を歩いてやってくるというのだが、日焼けはしないんだろうか。

私を最初に宝塚に連れて行ってくれた人が言っていた。タカラジェンヌが白いのは、舞台化粧をしてライトを浴び続けているからだ、と。その後、そういう説は聞いたことはないが、ご贔屓さまのあの白さは普通じゃない。一体どうしてあんなに白いんだろう。

白いドレスとか着たら似合いそうだなぁと、間近で見るたびにうっとりしてしまうんだけど、舞台を見るとあまりの男らしさにやっぱりもう女には戻れないかもと、とほほな気分にもなる。

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